研究の概要

私は「魔女」について研究しています。魔女と聞くと、何を思い浮かべるでしょうか?箒にまたがり空を飛ぶ意地悪なお婆さん、あるいは、とんがり帽子に鉤鼻で、魔法を使って悪さする、といったイメージが一般的でしょうか。アニメや漫画では、若くてかわいい少女の姿をしているものも多くみられます。こうした魔女たちは、現代の日本ではサブカルチャーの中でしかなかなかお目にかかれません。しかし今から数百年前のヨーロッパ、とりわけドイツ語圏では、多くの罪なき人々が「魔女」だとされて裁判にかけられ、処刑されました。いわゆる「魔女裁判」と呼ばれるもので、数万人もの犠牲者を生み出したと言われています。

このような歴史的魔女研究には多くのアプローチの仕方がありますが、私はおもに、魔女迫害に理論的根拠を与えたとされる知識体系について研究しています。この知識体系は、悪魔?悪霊?魔女を包括的に扱うもので、「悪魔学」と呼ばれているのですが、当該分野における最初期の『魔女への鉄槌』(以下『鉄槌』)という悪魔学書が、私の主たる研究対象です。

『鉄槌』はドイツ人の異端審問官であるハインリヒ?クラマーとヤーコプ?シュプレンガーによって著されたとされる悪魔学書です。初版は1486年に、ドイツのシュパイヤーという都市で出版されました。当時の教会関係者や知識人たちの共通言語であるラテン語で書かれた本書は、その後およそ2世紀にわたって、ドイツ?フランス?イタリアの諸都市で計29版が刊行され、ポーランド語にも翻訳されました。また本書には、ローマ教皇インノケンティウス8世による大勅書、ケルン大学神学部教授らによる出版認可書、さらにはドイツ国王(後の神聖ローマ皇帝)マクシミリアン1世からのお墨付きが添えられていて、後世の悪魔学者らがこぞって引用したことから、悪魔学における最重要作品とされ、魔女迫害を激化させたと言われています。

ハインリヒ?クラマーによる手稿本(1491年)

研究の特色

上でも述べましたが、『鉄槌』は悪魔学書の中で最重要作品とされています。そのため多くの先行研究があるのですが、それらのほとんどは、この悪魔学書を単独で扱っています。これはかなり奇妙なことだと思いませんか。というのも、『鉄槌』が魔女迫害に理論的根拠を与え、迫害を激化させた、と多くの研究者が主張しているにもかかわらず、本書を魔女迫害との関連で捉える研究がほぼ皆無だからです。悪魔学と魔女裁判とは、ほぼ同時期に同テーマを扱っていて、その直接的関連が指摘されているにもかかわらず、分析自体は別個になされているのです。こうした状況は、両者の関連を学問的な次元において実証していないことを示しています。私の研究では、『鉄槌』と魔女裁判との相互的影響関係を実証することを、主たる目的としています。こうした両者の関連に着目していることが、研究の特色です。

研究の魅力

もともと、自分の知らない世界に強く関心があり、大学生のころから海外旅行などを通じて、積極的に異文化に触れてきました。時間的にも、空間的にも遠く隔たっているヨーロッパの魔女問題を扱うにあたって、常に感じているのは、完全なる異文化と対峙している、という感覚です。中?近世のヨーロッパの人々は、魔女や悪魔の存在を信じていましたし、大学で教育を受けたような当時の最高の知識人たちが、そのことについて真面目に論じていました。裁判では、存在するはずもない事実を、あの手この手を使って証明しようとします。そして結果的に、数万人もの人々が有罪判決を受け、処刑されました。

現代の日本に暮らす私たちからすれば、まったく理解できないようなことが、日常的に起こっていたのです。しかしこれらの日常は、当時の人々が、無知で野蛮であることに起因しているわけではありません。悪魔学書や裁判記録を読み込むと、彼らなりの合理性のもとに行動していたことが分かります。もちろん、中?近世のヨーロッパは、言語?宗教?政治?法律?学問?慣習?気候?常識etc.ありとあらゆる点で異なる社会であるため、現代のわれわれの考える合理性とは、まったく異なるものです。

このような異文化との接触を通じてその理解に努めることは、自文化についての理解を深めることにもつながります。異文化と触れ合ううちに、これまで当たり前だと思っていたことが、狭い世界の中だけの常識だった、ということに気づくことがあるでしょう。こうしたことも異文化を研究対象とすることの魅力のひとつです。

今後の展望

現在、分析対象としている悪魔学書は『鉄槌』ですが、今後は『魔女および女予言者について』という作品についても研究しようと思っています。この悪魔学書は、ドイツのコンスタンツ出身の法律家ウルリヒ?モリトールの手になるもので、1489年頃に初版が刊行されました。モリトールはコンスタンツ司教の宮廷に仕えた後、ティロール伯領(現在のオーストリア)の宮廷に仕え、法律顧問?法務長官を務めた人物です。この悪魔学書が、ティロール伯領における魔女裁判といかに影響しあっているか、また先行する『鉄槌』との理論的な連続性?独自性はいかなるものか、こうした観点から研究していきたいと思っています。

この研究を志望する方へのメッセージ

歴史的魔女研究は、非常に魅力的な研究です。しかし、それを進めていくためには、いくつかの技術的修得が求められます。それらのうち外国語能力は必須になるので、関心のある人は、語学学習を嫌がらずにがんばってください!